幼くして父を亡くし母に養育され、とくに長兄から漢籍の手ほどきをうけ、
延暦二十一年(802年)小野寺村大慈寺の僧広智の弟子となり勉学数年にして諸部の典籍に通暁した。
その後大同三年(808年)比叡山に登り、伝教大師最澄の弟子になる。
承和五年(838年)遣唐使の留学僧として唐に渡り約十年間五台山、長安などで念仏、密教、悉曇(しったん)、声明(しょうみょう)などを
学び多くの教典や仏具を持ち帰った。
帰国後は日本各地を行脚し、仏教を弘めるかたわら、地方文化の興隆につとめ、
土地の開拓、架橋、施寮、施楽、麻の栽培奨励などを行い社会事業の先覚者と言われる。
また大師の創立した寺院は、全国で五百余寺にのぼり、日光山輪王寺、
松島の瑞厳寺、平泉の中尊寺、毛越寺、恐山地蔵堂、山寺立石寺などである。
このようにして最澄の遺業を大成し仁寿四年(854年)大三世天台座主となり、
貞観五年(864年)七十一歳で入寂した。
滅後二年目、日本で初めて「慈覚大師」という大師号を贈られる。
なお在唐中の日記「入唐求法巡礼行記」は、玄奨三蔵の「大唐西域記」やマルコポーロの「東方見聞録」に比すべき旅行記として有名であり、
当時の旅の困難さや唐の時代の様子を知る貴重な資料である。
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 『大師像は数少ない公開の機会の為 テレビ局からの取材の要請も』
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